LUCIE
古ぼけた⼩さな店のショーウィンドウに、そのうつわはほのかな輝きをまとって佇んでいた。
ロンドン、チェルシー地区にある雑貨店。なんてことのない店構えである。看板すら出ていない。旅⼈の私は、ど
うしてそのドアを開けようと思ったのか。通りに⾯したショーウィンドウに、品のいい⼩鉢がひとつだけ、ぽつんと
微笑を灯して置かれているのに⽬を引かれたのだ。
不思議な⾊合いのうつわである。夜明けの空を写したような淡いピンク⾊に、厚塗りの釉薬が銀⾊の雲を織りなし
ている。器の内側には釉薬の溜まりがふつふつと泡⽴つ⼩さな光の池をつくっている。
ただのうつわ。なのに、それはまるで薔薇⾊の星雲だった。
その⽇の朝、郷⾥の⺟からひさしぶりにメールがきた。私が初めて⾃分で焼いて⺟に贈った茶碗が、何もしていないのに突然割れた――何かあったの? と。
都⼼のマンションの⼀室に⼩型の電気窯を据えて、それで⽣計を⽴てるつもりで陶芸を始めた。もうどれくらいの
時が経ったのだろう。何年⽬、と数えるのはもはや苦痛だった。何年経っても、私が作るのは中途半端な雑器ばかり。
出来の悪いものはない。けれど、いいものはひとつもない。⺟のために創った、あの茶碗以降は。
これ以上続けても無駄かもしれない。もうやめたほうがいいのかも。
⼼を決めるために、旅に出た。
店内はがらんとして空っぽだった。壁に取り付けられた⽩い棚には何も置かれておらず、その代わりに段ボール箱がいくつか床に置かれていた。店の奥でしゃがみ込み、段ボールのふたを閉じていた⼥性が、振り向いて⽴ち上がった。⽩いシャツに、⽩いエプロン。⽩髪を結い上げた⼩柄なその⼈は、私の顔を⾒ると、にっこり笑いかけた。
――ごめんなさい。今⽇で店じまいなの。
⼥性は店主だった。あの、もしよかったら――と私は⾔葉を返した。――ショーウィンドウに出ているあのうつわ
を、⾒せていただけませんか?
――ええ、もちろんですとも。彼⼥はいっそう笑顔になって答えた。みつけてくれて、うれしいわ。
店主は⼤切な宝物を扱う⼿つきでうつわを⼿に取り、そっと私に差し出した。あまりにも⼤事なものだとわかった
ので、私は⼾惑ってしまった。――触ってもいいんですか? と訊くと、彼⼥はうなずいた。――触ってみてくださ
い。触らないとわからないことがあるから。
うつわは私の両⼿をかたどったかのように、すんなりと⼿のうちに収まった。ほのかにあたたかな感触、軽やかな
⾊合い、しっかりとした重み。灰を被り、炎をくぐり抜けて⽣まれ出た命の尊い輝き。⼩さな宇宙が私の⼿の中にあ
った。
それはたんなるひとつのうつわ。けれどそれは、私の両⼿を通して、私の⼼に、命に呼びかけていた。
店主は、黙って私を⾒守っているようだった。やがて囁く声が聞こえてきた。
――そのうつわのかたちはね。それを創った⼈の⼿のかたちなの。だから、あなたはいま、「彼⼥」の⼿にあなたの
⼿を重ねているのよ。
その⼿の感触を、忘れないでね。
うつわはもと通り、そっとショーウィンドウへと戻された。
通りへ出た私は、もう⼀度、ガラス越しにそれと向き合った。彼⼥の⼿のかたちをした星雲と。
その呼びかけに応えよう。もう⼀度創ろう――と私は思った。
まずは、⺟のためにひとつ。それから、⾃分のために、もうひとつ。