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Marie

​ あなたはきっと、知らないのでしょう。この喫茶店の、窓辺の席に、しっとりうずくまっている私のことを。

幾重にも花びらを折り重ね、花弁の隙間に蜜を溜めて固めてしまったオールド・ローズさながら、私のブラウスは襟なしの白、またはオークル・ジョーヌ。男の人のシャツによくあるような白にブルーのストライプ。燕脂と黑のチェックのスカートをはいて、 金茶のスウェータアや、ときどきボヤボヤした灰色っぽい丸い貝ボタンがついたスウェータアを身につけたとき、18 歳だったころを思い出し、赤い口紅をちょっとつけたり、頬紅を差したくなったりしつつも、そんなにめかしこんで目立ってしまってはいけない、まるでここにいないみたいにしなくちゃならないの......と、私が思っていることを、あなたは知らないのでしょう。

また、あなたはこんなことも知らないのでしょう。私がくすんだ赤とクリイム色の花模様のカップの中の、濃い橙色に近いような紅茶に角砂糖をひとかけら落として、ゆっくりと銀色のスプウンでかき混ぜる、歳のわりにはすんなりとした指に、もう昔昔のことではあるが、「ピジョン・ブラン」と名づけられた、白鳩の胸をナイフで突き刺したらほとばしり出る鮮血のような赤い色をしたルビイの指輪がはめられていたこと、あるいはロマノフ王朝の誰かがつけていたというダイアモンドの指輪が光っていたこと、さらには、純白の真珠の珠がついた金の指輪の内側に、かつて夫だった男が「ユーレイカ、 我見出せり」とギリシャ語で掘り込んで、結婚の証に私に贈っていい気になっていたことなど。

夫とともに巴里に暮らした私は18歳で、白に黑の絹あみのブラウスに黑のタイユウルを着て、肌色の絹の靴下、大好きな菫色の靴下を変わるがわるはいて、全部髪を解いて、下宿先の大家のマダム・ジャンヌに熱したこてを当ててもらい、軽くウエエブをつけて、鏡を見た時の自分の顔がいちばん自然ないい顔で、その顔が今どこにもないなんて信じられない、と思っていることも。私は汽車に揺られて、仏蘭⻄の⻄海岸からギャアル・ドゥ・ノオルに到着したとき、駅に降り立った瞬間に、得体の知れない柔らかな感覚に包まれて、生まれ落ちてすぐやさしく抱き上げられた赤ん坊のように、巴里に抱かれた、あの感じを、どうかすると今でも不意に思い出す。同時に、鉄錆色のブラウスに、ココア色の上着を着て、黑いマントウ、肘上まで⻑さのあるなめし革の白い手袋をつけ、靴屋の横止めの靴をはいた私が、ギャルリ・ラファイエットのショウ・ウインドウに自分の姿を映していい気になったある日の午後、オペラ通り沿いの香水専門店の黑いビロオドが貼ってある壁の窪みで見つけた「シープル・ド・コティ」の薄く華奢な小さな壜を取り上げて自分のものにした、あの瞬間こそが、永遠に私の「今」であることなども、あなたは知らないのでしょう。

濃い、少し紫を帯びた薔薇の色の、襟が広くあいて肩から腕がスラリと出ていたソワレを着た夜には、オペラ・コミック、ヴィユ・コロンビエの劇場を幌つきタクシィで回ったものだ。黑いスカアト、黑の靴、肌色の靴下、鉄錆赤のウールのジャケットのポケットに両手を突っ込み、パリジェンヌを気取って闊歩したオテル・ジャンヌ・ダルク。1月1日午前0時に、キャフェでたまたま居合わせた美男子に、「いいですか?」と突然言われ、あっという間にくちびるを奪われてしまったこと。そのすべてを、あなたは知らないのでしょう。

​あなたは、きっと知らないのでしょう。私がこの喫茶店に通い詰めている理由を。私の席からまっすぐに、あなたがいつも座っている席が見えていることを。

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