Maria-Teresa

キッチンの窓辺に椅子を引き寄せて座り、玉ねぎの皮を剥く。紅茶色のシャツを脱がし、すべすべの肌を両手で撫でる。

ここにひとつ、玉ねぎがあることを慈しんで。

なんてことない一日が今日もまた終わりゆくことに、どこかにいる神様に感謝しながら。

――まあマリア=テレサ、そんなにたくさん玉ねぎを剥いちゃって、どうするつもり?

上の姉さん、アンナの声が聞こえてくる。ちょっと呆れた、でもやさしい声。

――あらアンナ、覚えてないの? この子ったら、そら豆を剥き出したら止まらなくなっちゃって、三日三晩、そら豆のスープが続いたことがあったじゃないの。ほら、グリッツァーナの家で。

下の姉さん、ディーナがくすくす笑う、思い出をなつかしむ声。

あんなことがあったわね、ああ、そんなこともあった。ふたりの姉さんは、〈追憶〉という名のクローゼットから、気まぐれに、取っ替え引っ替え、〈思い出〉という名の服を引っ張り出してくる。ゆるゆるのカーディガン、ぶかぶかの外套(カポット)。お気に入りのセーター(マリオーネ)は、いつのまにかほつれてしまって。くたっとした上着(ジャッカ)は、兄さんのもの。ディーナはそれを羽織ってみる。

――兄さんったら、どうしてこんなどうってことない上着が好きなのかしら?

アンナはふふふ、と笑って応える。

――なぜって、どうってことないから好きなのよ。

私は微笑んで、こっそりうなずく。そう、だから私たちの兄さんは、どうってことないスープを、じっくり飴色に炒めた玉ねぎのスープを、またおんなじか、なんて一言も言わずに、少し背中を丸めて、ゆっくり口へと運ぶのだ。

 

冷たい桃のシャーベットのような夕映えが、私たちが暮らすフォンダッツァ通りの古びたアパートを包み込む。

アンナはストーブの側に陣取って編み棒を動かし、ディーナはラジオのダイヤルをウニオーネ・ラディオフォニカに合わせている。聞こえてくるのはマリア・カラスの歌〈私のお父さん〉。私は鍋でバターを焦がし、玉ねぎのスープを作っている。

――ねえ兄さんは? と私。兄さんはどうしているの?

――アトリエよ、あいも変わらず。と編み棒の手を止めずにアンナが応える。親友たちとおしゃべりの真っ最中よ。

兄さんの親友たち。それは、兄さんが一生のほとんどをかけてみつめ続け、カンヴァスに写し続けた静物の数々のこと。細い瓶、丸いうつわ、長い首、短い丈、花瓶、壺、カップ、ボウル、水差し。テーブルの上に、棚の上に、椅子の上に、うずくまったり、佇んだり、ぼんやりしたり、はにかんだり。兄さんは、寡黙な彼らと目と目を交わし、今日も朝から夜まで会話を続けている。声のない、言葉のない、心の耳にしか聞こえない、ゆたかな会話の数々を。

カンヴァスに写された彼らの姿は、どれも同じように見えるのに、どれにも清々しく個性があった。彼らの個性はにおい立っていた。目をつぶってもまぶたの裏に浮かんでくるほど。

――使徒たち(アポストリ)を描いているんじゃないかしら?

アンナがつぶやいた。やっぱり、編み棒を動かしながら。兄さんはきっと、瓶やカップや水差しに聖なる何かをみつけたのだわ。

――天使たち(アンジェリ)かもしれないわよ。

ラジオに耳を傾けて、ディーナがささやいた。あの色、あの優美さ、あの佇まい。天使の一群なのよ、きっと。

くつくつ、煮え始めた鍋をのぞき込んで、私は、口の中で小さく言った。

いいえ。きっと、あれは私たち姉妹よ。

 

夜気がしんしんと部屋に忍び寄るのを感じて、アトリエの窓の鎧戸を閉めにゆく。

暗いガラス窓の中に、イーゼルに向き合う兄さんの姿がまぼろしのように映り込んでいる。

ラジオからはヴァイオリンの調べが流れている。窓をそっと開けてみる。吐く息が白い。

通り沿いの家々、ヴァーミリオンの瓦屋根を純白に染めながら、雪が降っていた。果てしなく静かに、どこまでも浄らかに。