Jeanne-Claude
覚えている、何もかも。彼⼥と夜ごと遊び回っていたあの頃のことを。
あの頃のパリ。アートと、ジャズと、詩と、映画と。創造のモメンタムが膨れ上がり、若者たちはコンクリートの壁 を狙ってペンキで落書きをして、街じゅうをカンヴァスにした。
アスファルトの下は砂浜だ。誰かがそんなフレーズを書いた。
私もそのひとり。いや、正確に⾔えば、そんな破壊と創造に憧れていたひとり。
憧れながら、何もできずにいた。焦りに似た、もやもやと胸に募る名もない感情を追い払えずに。 彼⼥のファミリーは裕福で、何不⾃由ない暮らし。きれいな彼⼥を、男の⼦たちは誘わずにいられない。 ドレスも、ジュエリーも、おいしいものも、豪華な旅⾏も。なんだって欲しいものは全部⼿に⼊る。 それなのに、彼⼥は私のシャツの腕を引っ張って、さあ⾏こうよ、と誘うのだ。
どこへ? どこでもいい、⾃由のあるところへ。
ねえ知ってる? ⾃由とは何も持たないことなのよ。
あるとき、彼⼥が私に⾔った。不思議な⼈をみつけたの、と。
ブルガリアから来た美⼤⽣。ママンのポートレイトを描きに家へ来たのよ。
「完成しました」って、ワックスペーパーで乱雑に包んで紐で縛ったカンヴァスを私に⼿渡したの。 ペーパーの下に透けて⾒えたのは、ママンじゃなくて、どうやら私の顔。
包みを開こうとしたら、「開かないで」。なぜ?「包むという⾏為こそが、僕の作品だから」。 ね、おかしいでしょ? と彼⼥は笑った。
でも私、思ったの。もっとこの⼈のことを知りたいって。
夏⾄を過ぎたある⽇、ボリス・ヴィアンが死んだ。
その2 年後、東⻄ドイツを隔てる壁がベルリンに造られた。
その翌年、⼀夜にして積み上げられた⽯油⽸が7区のヴィスコンティ通りを封鎖した。
パリっ⼦たちを驚かせたこの「バレル」は、すぐさま警察によって撤去された。けれどそれは、決して消えない残像 になって、私たちのまぶたに焼きついた。
彼⼥と彼の仕業だった。この世で⼀番美しい悪戯だった。
私は彼⼥に訊いた。――この布の下には何があるの?
彼⼥は答えた。――あなたに⾒せたいものを隠しているのよ。
それはきっと、「嘘」ではなくて、「真実」。「夢」ではなくて「現実」。「まぼろし」ではなくて「かたちあるもの」。 この世の醜さ、汚さ、濁り、澱み。そういうものが存在するという現実、だからこそ美しい世界を私たちは⽣きてい る。
それをあなたに、みんなに気づいて欲しくて、私たち、こんなことをしているの。
この世界にはびこる不⾃由を破壊しに、と彼⼥は⾔った。
そして新しく作り直すために。どこまでも⾏くわ。私、あの⼈と⼀緒に。
そうして、ふたりは私の前から姿を消した。
私は相変わらず、左岸のクラブに通ってジャズにたゆたい、ポン・ヌフのベンチでひとり、夜明けを待っていた。 いつの⽇かきっと、彼⼥はここへ帰ってくる。彼と⼀緒に。
ばらばらに分断された世界を編み直し、美しい布でひとつに包み、固く結び合うために。 私は決めた。ふたりを待とう。ひとつ、またひとつ、いくつでも夜明けを数えて待とう。
いつくるかもわからない未来が、あの頃、私にはいとおしかった。
たまらなくいとおしい、たったひとつの宝物だった。