Agnes
待っている。いつも。私は、その瞬間を。
いつ訪れるともわからないそのとき、けれどいつかきっとやってくるとわかっているか
ら。
インスピレーション、感動、ゆらぎ、奇跡。⼈は、それに名前をつけて呼びたがり、芸術
だとか、精神性だとか、哲学的だとか、分析して、分類して、理解したがる。
けれど、私は知っている、それに名前がないことを。私にしかわからない瞬間。私だけに
やってくる、それを私はこの世界に存在する名前で呼んだりはしない。
⾵が吹いている。細い⼝笛のような⾵が。渓⾕の⽩い岩肌をかすめ、⼭々を包む樅の⽊の
新緑の枝を揺らし吹き渡る⾵。それに磨き上げられた空はどこまでも清澄だ。
乾いた⼤気を呼吸するさまざまな⾊。⻘をかすかに含んだ雪解けの⽩。砂漠のさなかで花
びらを開きかけた⼩さなひまわりの⻩。うずくまる聖⼈の姿にも似た教会をかたち作る⼟
の緋⾊。⼀陣のつむじ⾵をまとって佇むユッカの緑。
⾵の⾳が、⼤地の⾊が、ゆっくりとうごめき、前進し、ひたひたと近づいてくる。私が握
った筆先まで。
なにを描いているの? と、よく訊かれたものだ。たったひとりで、さびしくはないの?
私は答えた。ええ、私が描いているのは、〈幸福〉です、と。幸福とは、完全な美の中に
あるものです。それを私は追いかけているのです。美を追い求めるのに、道連れは必要ない
でしょう?
だからひとりで?――ええ、そうです。ひとりでなければならないから。
さびしいでしょう? ――ええ、そう、さびしいかもしれません。けれど、さびしさは私
の感覚を研ぎ澄ませてくれる。だからこそ、私は、さびしさを⼒に変えて、描き続けていけ
るのです。
静まり返ったアトリエ。⽩い壁に、真四⾓の⽩いカンヴァスを固定する。
古ぼけた⽊の椅⼦に腰掛けて、私は⽬を閉じる。そして、聞く。⾒る。追いかける。⾵の
⾳、この世界を満たす⾊たち、どこかへ旅⽴ってしまったかたちの数々を。
やがて、その瞬間が訪れる。
それには名前がない。わかっている。けれど私は、ふと、誘惑にかられる。それをこの世
界に存在する名前で呼んでみたいと。
その誘惑に抗えなくなった私は、それをこう呼ぶだろう。――〈幸福〉と。